飢ゑ

クヌウト・ハムスン

宮原晃一郎:訳

昭和十二年三月十日印刷 昭和十二年三月十五日発行

新潮文庫 定価三十五銭

 

「クライムズ・オブ・ザ・フューチャー」というタイトルは、ノーベル文学賞作家クヌウト・ハムスン「飢ゑ」(1890)の小説に登場する架空の論文タイトルから。小説ではその内容が具体的に描写されることは一切ない。

僕が、ちっと工面がよくなっていりゃ、誰からだって敷布なんか借りやしなかったんだ。今日が日にも、『未来の犯罪について』とか、或いは『自由意思について』とか、何とかかんとか、或いは少なくとも十クローネルを儲けられる。讀むに足るべき論文を書きだしてゐないものでもなからう…… (8p)

主人公の僕は、「そして午後のうちに『未来の犯罪』の論文を書き上げてしまはなけりやならん。~(11p)」とも口にするが、実際にその論文を書き上げることもなく、無様な日常が続く。タイトルの「飢え」は文字通り、金欠のあまり空腹に苦しむ描写や、地元の新聞社へ原稿を持ちこんでは前借りを頼んだり、借金取りから隠れたり、「僕」の悩みはわりと身も蓋もない分、世界共通のものだ。

作者のハムスンは、1890年「飢ゑ」でベストセラー、「土の恵み」(1917年発表)で1920年にノーベル文学賞を受賞、ノルウェーを代表する人気作家だった。ところがその後、第二次大戦中のナチス支持が戦後に大問題になり、裁判沙汰で名誉失墜。1952年92歳で死去した。晩年は、すっかり荒れ果てた屋敷で脳卒中のために聴力も視力も失い、孤独に暮らしていたらしい。

著者の死後、「飢ゑ」は1966年にデンマークで映画化された。主役の青年が橋の上で欄干を机がわりに「未来の犯罪」とメモするシーンを若いクローネンバーグ監督は目にした。そのイメージが監督に強烈な刺激を残した結果、1970年、2022年と監督自らによるオリジナル脚本で2本の映画が生まれたのだ。

31歳でベストセラー作家となったハムスンの「飢ゑ」は、いまだ「作家未満」の若者が、空腹と闘いながら何者かになろうとデンマークの自由都市クリスチャニヤを彷徨う物語である。ラスト、若者はカヂス(スペインのカディス?)行きの船に乗り街を出る。

クローネンバーグ版「裸のランチ」もまた、米国人バロウズが自由都市インターゾーンを彷徨い、最後には「国境」を超えるラストで終わる。

物語を貫くプロットの竜骨は、実はハムスンの「飢ゑ」だったのかもしれない。

  Sult (1966) Director Henning Carlsen

1920年代には国を代表するほどのノーベル賞作家ハムスンは、その後ナチスを支持するという「未来の犯罪」に裁かれて、もはやすっかり忘れられた作家になってしまった。

さらに時代は過ぎて21世紀、ハムスンの小説に登場したタイトルだけの小論「CRIMES OF THE FUTURE」は、時代も場所もメディアすら超越し、クローネンバーグ監督によって映画化された。小説の僕は無論、著者のハムスンですら想像することもなかった異世界の犯罪描写と新たな「読者」を獲得することになるのだ。

2024/8/14~16:記

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