衝動説教 娘よ!
2002年2月
■残業
娘よ。父は残業なんぞ欲しとらん。
まして金にもならんサービス残業ならば、なおさらじゃ。
それでも、夜遅く仕事を続けてしまうのは、ただただ責任感と意地だけがそうさせるのじゃ。ひょっとして、タイム・スケジューリング能力とやらが上手でないだけやもしれんが…。
複数の人を相手に、自分に都合良く仕事するのは、容易なことではない。
ちゅうか、無理な気も…(泣
2002/02/27
■杉花粉
娘よ。父は杉花粉なんぞ欲しとらん。
誰も欲しとらんとは思うが。
いつぞや読んだ説によると、杉も好き好んで花粉ばらまいとるわけでもないらしい。詳細はすっかり忘れてしもうたが、悪循環でどつぼな都市計画の失政のせいだと記憶してるが、真相はどうじゃろうか?改めて調べる気力もないが。
すでに花粉症になってしまってこの時期は何をするのも、容易なことではない。
2002/02/26
■オリンピック
娘よ。父はオリンピックなんぞ欲しとらん。
基本的にスポーツはやるものであって、観るものではない。
おまえは
もし○○ちゃんのピアノ発表会が、四年に一ぺん、ものすごい舞台装置と、巨大な発表会場でテレビ中継されたら、どう思うじゃろうか?
それは、馬鹿馬鹿しいことじゃ。
無意味なことじゃ。
そうは思わんか?
しかし、○○ちゃんがとんでもない金持ちの嬢ちゃんだったり、隣町の××ちゃんより上手に、外国からきた△△ちゃんより見事にピアノが弾けたりすると、話が違ってくる。
まして、○○ちゃんの弾くピアノ・メーカーが、テレビ中継されてピアノの売上が伸びたりなんかする場合は、それはもう、どうしたって単なる「発表会」ではなくなっていくものじゃ。
オリンピックも同じじゃ。
オリンピックは、とっくの昔に「運動会」ではなく、「四年に一度の大公開!ウルトラ人間大集合!あの国の選手をやっつけろ!」とでもいった政治的見世物となって久しいのじゃが…。
誰もがそれを知っていながら、誰も止められないそのバカ騒ぎっぷりは、まるで悪夢のようじゃ。
巨額の資金と人員を駆使した「巨大イベント」を、単なる能天気を武器に無視することは、容易なことではない。
2002/02/25
■ティーカップ
娘よ。父はティーカップなんぞ欲しとらん。
井の頭公園端にある小さな一画、乗り物コーナーのティーカップのことだ。
8の字の新幹線や、メリーゴーランドはいいだろう。
次々と百円硬貨を呑みこむ、忌まわしいミニ・カーもまあ、上限を設けるならばよしとしよう。
が、あのティーカップだけは、勘弁してくれ。
ぐるぐると回るその素朴な破壊力は、
後遺症がほぼ6時間続くほどの
恐るべき威力だった。
思い出すだけで気持ち悪くなる。
天真爛漫に笑うおまえと、おともだちの○○ちゃん。
天使の顔を持つ悪魔。
娘を悪魔呼ばわりするのも大人気無いが
調子に乗って回転の速度をぐんぐん上げるおまえたちが
ちょっと恨めしかったことは、事実だ。
三半規管の衰えを実感することは、容易なことではない。
2002/02/17
■携帯電話
娘よ。父は携帯電話なんぞ欲しとらん。
特に電車内での使用は厳禁じゃ。
ただでさえ、うるさい車内アナウンスが
携帯のおかげで更にパワーアップじゃ。
いくら車内アナウンスでペースメーカーの危険を訴えても
あいかわらずメールうつバカものどもが減らんのは
どういうわけじゃろう?
かかってくる電話はともかく、
わざわざシルバー・シートに座って
携帯メールに夢中のバカ娘どもには
あきれるばかりじゃ。
それはまあ、それとして
今日、夜11時過ぎの井の頭線のことじゃ。
父は座席で「死者との誓い」を夢中で読んどったのじゃが、
気がつくと、右斜めで立っていた女の人が携帯で話しとった。
でも、聞こえたのは最後のとこだけ。
「…今、電車に乗ってるのよ(英語)…I'll call you back later. バーイ.」
ほとんど抑揚の無い、低めのクールな小声で、
要件だけ伝えて、スパっと切ったのじゃ。
なんだかカッコよかったぞ。
英語だからカッコ良かったのじゃろうか?
そんなことはない。英語でも不快な時は不快じゃ。時々、周りの日本人が英語がわからんだろう事を前提に、不快な言動を発するクソ白人を、何度か地下鉄車内で目撃というか耳撃したことがある。それはもう不快なもんじゃ。そんな時はしばらく、目にする白人すべてが憎悪の対象となり、英語を聞いただけで瞬間人種差別主義者になってしまうものじゃ。
なんとなく美人の奥さん?ぽいからカッコよかったのじゃろうか?
そんなことはない。実はずっと本に夢中で、電車を降りるときも顔は見なかったのじゃが、たとえどんな美人であろうとも電車内でべちゃべちゃとデカイ声で話されては、興ざめというものじゃ。そんな女性を目撃した日には、しばらくの間、目にする女はすべて憎悪の対象となり、瞬間女性差別主義者になってしまうものじゃ。
声の質がなんだか良かったのじゃろうか?
話し方のリズムのせいか?
そんな気がする、答えは、音量と音質とリズムだ。
人間の感情とは勝手なものじゃ。
感情のリアクションはモラルとは別の論理展開で、一瞬のうちに決定されるのじゃ。
だからといって、その感情を全肯定しちゃいかんところが、大人のたいへんなところじゃ。
己の素直な感情と闘うことは、容易なことではない。
2002/02/16
■バレンタイン・デー
娘よ。父はチョコなんぞ欲しとらん。
菓子屋の糞くだらないプロパガンダなんぞにノセラれて、
つまらないことに気を使うようなことはしてくれるな。
義理チョコなんぞ、有害無益以外の何物でもない。
広告の基本に「脅迫」パターンがあるが、義理チョコは、買う人間、もらう人間双方にとって、「脅迫」的な効果をあげているのだ。
義理チョコは、その「義理」というあからさまに不快な本質を露にしながら、受け取る以外の行為を許さない。つまり、絶対的な強制力を持つ暴力装置なのだ。
義理チョコを拒否する行為は、冗談も通じない愚かな男、もしくは世間をひがむ性格破綻者としての烙印を意味する。
たかが、菓子屋の商売行為にすぎない義理チョコが、かくも全体主義的な暴力装置と化してしまうことは、恐怖としかいいようがない。
チョコを配る必要に迫られているのは、それを売る菓子屋だけであることを、よく考えるのだ。バレンタイン・デーのお返しとして、ホワイト・デイとかいうふざけたキャンペーンが、でっちあげられ、いつのまにか嘲笑されなくなってしまったのは、ウソも繰り返せばホントになるという、まさにナチのやりくちだ。
大の大人が、くそくだらない広告の意のままになるとは嘆かわしいにもほどがある。
本気で異性にプレゼントしたくば、何をいつ、どこでプレゼントしようが大きなお世話ではないか。菓子屋にどうこう指示される筋合いなど絶無だ。
ましてや、義理チョコなど…。
父のポリシーは、貰うものは貰う。
これじゃ。
義理チョコといえども、受け取ろう。
食べもしよう。
んがしかし、例の「ホワイト・デイ」とやらに「義理」返しなんぞは、死んでもやらんぞ。悪しき鎖は断たねばならんのじゃ。
巷にはびこる陰謀と闘うことは、容易なことではない。
2002/02/14
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