Dancer in the Dark


完全解説=完全ネタ・バレ



2001/04/30:第五校
2001/04/22:第四校
2001/04/16:第参校
2001/04/15:第弐校
2001/04/11:初校
ダンサー・イン・ザ・ダーク。

トリアー・ファンにはおなじみの、徹底した主人公いじめの世界が、ビョークという天然素材を得て爆発した大傑作。

「エレメント・オブ・クライム」は異常者を知ることで自分も…という心理的恐怖。

「ヨーロッパ」は親切心からやってきたアメリカ人青年をまきこむ政治的恐怖。

「奇跡の海」は夢見る女が直面するセックスと献身の宗教的恐怖。


今回の「ダンサー・イン・ザ・ダーク」で描かれるのは、経済的恐怖だ。


■=$2,056.10
セルマの息子の手術費=$2,056.10
$2,056.10=ビルが欲する生活費(妻のため)
セルマの弁護費用=$2,056.10

「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の基本的な本筋は、上記の等式に集約される。
フツー日常生活で、「手術費」と「生活費」と「弁護費」とを並べて、同じ価値だ…などと想像することはまずない。

が、ここに$2,056.10 と、具体的な「価格」が提示された瞬間、それぞれは「交換可能」な「商品」になってしまうのだ。

これは資本主義経済の基本である。

そこで、物語のキャラクターが登場する。
セルマとビルだ。

■キャラクターは明快だ。化粧っけ皆無、つましい節約暮らし、唯一の娯楽は安価な大衆娯楽「ミュージカル映画」…というセルマの設定は、まるで、善良なプロレタリアートの戯画だ。

更に、意地の悪い設定は続く。悪役は、警官のビル。しかも絶対的権力者とは、とてもいえない情けない小悪党である。極悪非道の悪人ではない。「愛する妻」のために、自らの社会的立場を利用しつつセルマの金を盗む。実際に金を使うのは、ビル本人ではない、「妻」のためだ。であるがゆえに、その行為は、常に言い訳と罪悪感と開き直りとが混在する、ひどくみじめったらしいものとなる。


■ドラマは、この二人の容赦ない「経済的破滅」への一本道を、セルマの愛憎なかば(というか、完全に矛盾した感情表現=ああ、私はミュージカルが大好きだわ!=ああ、ハリウッドなんか大嫌い!)ミュージカル描写で豪快に突っ走るのだ!なんたる屈折!


■では、簡単に二人の「経済的破滅」を説明しよう。
セルマ=プロレタリアートが一生懸命貯めた「金」は、手術費以外の意味をまったく持たない特別な金だ。手術という具体的な「商品=使用価値」そのものといっていいだろう。が、現実には特別な金などというものは存在しない。

「金」は基本的に数字でしかない。

数字が提示された瞬間、それは「交換」の対象となる。あとは交渉次第だ。
貨幣が持つ機能としては、「手術の金」と「弁護費用=自分の命の費用」とが同額であるならば、どちらを選ぼうが自由だ。資本主義的にいえば、それはむしろ「交換」すべきである。「交換」こそが更なる価値や利益を生み出すのだ。
が、セルマにとって「手術の金」は「手術の金」である。それ以外の用途に使用することは許されない。セルマの厳しい倫理観はそれを許さないのだ。いわば「交換価値」の完全否定である。つまり、資本主義の基本原則を否定しているのだ。

一方、警官ビルにとっての「貨幣」も、実は本人が必要としているわけではない。ここも重要である。「金」を実際に消費するのは、セルマでもビルでもない。セルマは愛する息子のため、ビルは愛する妻のために「金」を必要としている。二人ともに、必要とする「金」は、直接的には自分のためではないのだ。ところがその金と交換される「商品」の「価値」において、重要な「違い」がある。
息子にとっての「手術代」である「金」はそれ以外に意味を持たない「商品=使用価値」そのものである。息子が必要としているのは、直接的には「手術」そのものであって「金」は「手段」でしかない。が、ビルの妻が「生活」のために必要とする「商品=金」は「交換価値」的側面の強い(より現代的な)ものである。妻が必要とする「商品=金」は、何か具体的な、絶対的な、交換不可能なモノを対象としてはいない。ビル側の「必要」とする「金」が意味するのは抽象的な「豊かな生活」である。それは、まさに現代的な「商品」に囲まれた生活である。

さて、映画「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を見ている観客にとっては、ビルの妻側の「金」の重さは、明らかに「手術代」よりも軽い。セルマが我が身を犠牲にして必死で貯めた「手術代」は、このままだと失明してしまう息子のための「金」だ。
が、実は、我々観客にとってリアルな・より日常的に馴染み深い「金」は、「手術代」としての「金」ではなく、「豊かな生活」のための「金」の方である。
つまり我々は、道徳的にはセルマの「金」の方が重要だと感じさせられるのだが、感情的(=日常的に馴染み深い)にリアルに感じるのはビルの選択した「金」の使い方の方なのだ。映画を見る私にとっては、悪人の金の使い方のほうがリアルなのだ。つまり、観客は、無意識に映画を見ていると、物語の構造上、自然と不愉快な立場に追い込まれるのだ。

■実は、観客にとっては、セルマの「金」よりも、警察官の「金」の方が、より身近で日常的・リアルな「金」であることは、トリアーの罠である。

これを、意識的に自覚できない観客は、セルマの怒りのシーンが、やり過ぎ、過剰な表現として印象されるに違いない。が、セルマのあの怒りの執拗な描写こそは、この映画の核であり、正義と不正義、暴力の衝動と、暴力の虚しさ、感情と論理の爆発を表現した、真の「暴力描写」なのである。どこかの愚鈍なヤクザや子供が殺し会う描写は単なる「幼稚なアクション描写」であって、断じて「暴力表現」などではない。

セルマが、ビルに乞われるままに泣きながら銃を撃った後、銃を捨て、今度は明らかに自覚的に、怒りを持って、半死人の警官を、更にぶちのめす、情け容赦無い恐ろしいシーンは、ビルの矛盾だらけの行為を弾劾するだけではない。

彼女が血まみれで否定するのは、間接的に「手術費」と交換されてしまった「交換価値として機能する金」である。
「手術費のための金」と「豊かな生活のための金」とを、「交換」してしまったビルの、あまりに無自覚なその意識に対する怒りなのだ。

「手術費のための金」と「豊かな生活のための金」とが簡単に交換可能な「商品」として機能してしまう「貨幣制度」というシステムは、セルマにとっては理解しがたい「憎悪」の対象であろう。血まみれの手で殺そうとしたのは、警官の肉体と、その行動をうながしたすべてに対してだったのではないか。

あらゆる「モノやサーヴィス」に値がつけられ、思わぬモノを交換可能にしてしまうシステム。それは資本主義の本質でもある。時に、それは当事者にとって不条理としか思えない「現実」となることがある。
セルマの金を盗んだ瞬間、ビルにとって盗んだ金は、単純に「$2,056.10」という単なる数字としてしか、認識できなかったのだ。
が、いったん「金=数字」に変換されてしまった「記号」を、変換前の個人的な思いを類推、推察することは、実は難しい作業だ。が、人間の場合、「感受性」「他者への感情移入」といったプログラムが、この難しい作業を時には簡単に処理できるのだ。
が、この「感受性」「他者への思いやり」といったものは、残念なことに麻痺しやすいものだ。ビルも、セルマの金を盗んだ瞬間、麻痺してしまったのだ。
が、セルマはこれを許さない。ビルの感受性=我々の日常的な無意識的態度は、セルマによって劇的に否定されているのだ。しかも明快な殺意を持って…。

これは怖い。

この映画に生理的嫌悪感を覚える人々は、ある意味で正しい。
セルマが殺意を持って血まみれになりながら否定するのは、「我々の日常的な価値観=麻痺した感受性」なのだ。

セルマがあまりに真っ当過ぎることも、我々、凡人の神経を逆撫でにする。

セルマは、自分の「弁護費」ではなく愛する息子の「手術費」を選択した。
ビルとの約束(ビルが妻の浪費に悩んでいたことを誰にも喋らない)を死ぬまで守りぬいた。

目が見えなくなる恐怖を、目前に迫る死刑の恐怖を、ミュージカルを武器に敢然と立ち向かったセルマの感受性は、いつも前向きで、真っ正直である。

それにくらべて、ビルの情けなさはどうだろう!…

あなたの「100円のナニカ」と、誰かの「100円のなにか」とが、ある瞬間、まったくなんのつりあいもとれないはずなのに、ただ「100円」だというだけで、交換されてしまうコトが…。
あるいは、あなたには「とてもすぐには用意できない100万円」が、ある人にとっては「ハシタ金の100万円」として、処理されてしまうようなことも…。


「金」というシステムが持つ、この不条理(使用価値と交換価値の乖離)は、コトの大小はあれ、いつか必ずあなたもわたしも巻きこまれることだ。

ビルの罪、セルマの怒りは、資本主義社会に普遍的なテーマなのである。

■そんなセルマが、アメリカの司法制度を経て、アメリカンなミュージカルの幻想とともに、公衆の面前で、轟音と共に首を括られてお終い…という、トリアーならではの情け容赦無い豪快なラストは、当然といえば、当然の結末だ。

(1)彼女はアメリカという資本主義社会の中で、怒りに血に染まった手で「資本主義の根幹である「貨幣の交換機能」を否定したのだ。
(2)しかも単なる労働者である彼女が殺したのは、かりにも社会の正義を体現する「警官」の男である。
(3)セルマは、その行動の結果、誰もが夢見る「豊かな生活」に対しても、自分の死も省みずに宣戦布告した。
(4)アメリカが与えてやった「ミュージカル」という現実逃避の甘いファンタジーを、セルマはわがものとして、こともあろうかアメリカ=現実と闘うための武器として使った。

(まとめ)セルマは、アメリカならではの文化=ミュージカルを生きる拠り所としながら、アメリカの原動力である資本主義の根幹の概念=交換価値を否定したのだ。

結果として、セルマは様々なレベルでアメリカ=資本主義に対して闘いを挑んでしまったのだ。論理的な流れから、「アメリカ」国内での死刑は当然である。

■そう、ダンサー・イン・ザ・ダーク は、「アンチ・ハリウッド」「くたばれアメリカ」「資本主義は貧乏人と中途半端な体制側の人間(警官)を殺すだけ」といった基本ストーリーを、「アメリカ」が誇る「ハリウッド」ならではの手法=ミュージカルを、皮肉ではなく真正面から脱構築して、まじめに作り上げてしまった、前代未聞の「「アンチ・ミュージカル」ミュージカル」なのである。

■全編通して、エネルギーに満ちたビョークの叫び…私はミュージカルが大好き!でもアメリカなんか大嫌い!なぜ、人はそうと、薄々わかっていながら、そうなっちゃうの!そんなのイヤ!でもどんな状況だって楽しく立ち向かえるわ!という具合に、情念と論理とが見事なまでに「ミュージカル」化されていながら、どうしてここまで無慈悲な話が展開できるのか!?という、考えれば考えるだけ情感と論理とが矛盾する異様な迫力で屈折した入魂の一作。
これを傑作といわずして、何を傑作といえば良いのか!

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