スパイダー 少年は蜘蛛にキスをする チラシ |
Spider (2002) パトリック・マグラアの原作では、DVD特典映像で監督が指摘していた通り、主人公の論理的で多弁な描写の結果、最後の「オチ」がおお、そうだったのか…と、フツーな読後感を味わえます。つまり、母親殺しの犯人が「ほんとうは」誰だったのかが、論理的に描写されるわけです(一応は…)。 映画も、基本的な物語の流れはまったく同じです。ところが、「小説」と「映画」では、物語が終わったその瞬間の印象がまるで別物になりました。 さすがクローネンバーグ。 スパイダー当人の徹底した主観が、テキストではなく映像で描かれた結果、小説では7:3程度に類推できたつもりの「客観的現実」が、映画版ではほぼ100%、事の真相がもはやサッパリ、不明になっちまいました。物語冒頭から、スパイダーによって語られるキャラクターが、どんどん変わっていく(時にはスパイダー自身の意思によって、キャラクターが変化してしまうシーンまであります!)ため、最後に描写される父母の描写も、とてもアッサリとは信じられないわけです。これは、テキストと映像というメディアの違いもあるかもしれませんが、むしろ監督の演出です(キッパリ)。 それはそれで、というか、まさにサッパリ不明になったおかげで、スパイダーの屈折した個人史は、オリジナル小説よりも哀切感が30%以上(当者比)増強されてます。 この繊細かつ微妙だけれども重要な違いは、「主観=主人公への感情移入の度合い」と、「客観=物語が壊れた主人公の主観で描かれていることを忘れない」の微妙なバランスを意識的にとらないと、理解不能でしょう。 上記のバランス感覚は、一見すると矛盾した困難極まりない仕事な感じですが、「他者」を理解するためには日常的に必要とされているバランス感覚にすぎません。 「他者」理解と同様、自分自身の「記憶」に対しても、実は同様のアプローチが必要なわけです。「記憶」のやっかいな点は、時間の経過とともに変化していくことです。自分の「記憶」が、どこまで正確な記憶なのか?自分の理解する「他者」は、どこまで正確な理解なのか?。 ラジカルな問いかけ(異常な記憶)で普遍な日常(記憶の本質)を問い直す、という古典的な作品でした。 記:03/09/14 |
Spider (2002) 2002年2月カンヌ映画祭で公開 2003年1月来日記者会見 2003年2月試写会 2003年3月29日(土)ニュー東宝シネマほか全国ロードショー 2003年8月末、DVD日本盤発売。
試写状 ■チラシの絵柄がグレー1色になり、タイトルロゴだけが赤で印刷されてます。 (2003/02/22) |