crash
あらすじ
ジェームズ(James Spader)とキャサリン(Deborah Kara Unger)のバラード夫妻は、お互い求め合い、愛し合っていながらも、新たな刺激を求めていた。そんなある日、ジェームズは交通事故に遭遇、大事故にあい、九死に一生を得る。が正面衝突した対向車に乗っていた夫婦は、運転していた夫は即死、助手席の妻ヘレン(Holly Hunter)は重傷を負っていた。入院先の病院で、生き残ったヘレンから冷たい視線を受けるジェームズ。思わずひるむジェームズ。そんなジェームズのギプスで固められた足に、熱い視線を向ける奇妙な男ヴォーン(Elias Koteas)がいた。ジェームズの人生は、ヴォーンと出会うことで、 crash の世界へ暴走しはじめる。
100分
1996/10/04(金)東京国際映画祭;オーチャードホール
1997/02/09(土)銀座マリオン 丸の内ピカデリー2
映画祭の上映では、タイトルが黒バックに白文字の味気ないものだったが、
後日、一般公開の際に劇場で見たとき、
例のごとく美しいタイトルデザインになっているのを見て
それはもう驚愕しました。
◆ひとこと◆
「無修正公開!」てんで妙な期待もあって期待大だったが、
予想に反して、原作よりもずっと上品に仕上がった佳作。
ロザンナ・アークエットの腿の傷は、さすがのディティール。
時折見られるユーモラスな描写は、余裕の感。
サントラは、より原作のイメージに近い。
不安感を醸し出して、いい雰囲気。いつものハワード・ショア節なんすけど・・・
!!!!!以下の項目、は映画を見た後で読んで下さい!読後忘却すべし!!!!
◆小論 1997/01/22 (97/02/09若干改定、98/11/10追加改定、00/05/28校正補足)◆
クラッシュ。衝突。事故。偶然に起こる突発的な事象。
映画は、2人の男の物語である。
主人公のジェームズ(ジェームス・スペイダー)がとりつかれるオブセッションは、
あくまでも「クラッシュ」という非日常的でかつ圧倒的な体験であって、
単なる交通事故ではない。
彼は、ある日偶然、「クラッシュ」を体験する。
それは、まったく予想外に起こった。唐突に、体験した者の世界を、決定的に変えてしまう体験だ。その瞬間に起こる、自分自身の負傷と、全く見ず知らずの他者の死。様々な要素が、予想外の状況のもとで、一瞬にして劇的な変化を生じる「クラッシュ」の体験は、ジェームズを圧倒する。「クラッシュ」以前と、「クラッシュ」以後とでは、ジェームズは別人である。「クラッシュ」以後、世界は以前とは違って見えはじめるのだ。
ジェームズがのめりこむのは、単なる交通事故ではない。
交通事故が象徴する「クラッシュ」とは、
「予想外の状況」で「極端な形」をとりつつ「他者と出会う」「圧倒的な体験」である。
映画では、並行して圧倒的な「体験」のもうひとつのかたちが、描写される。
性的クライマックス=セックスである。
セックスと交通事故に共通することは何か?
「状況」と「他者」を必要とすること。
体験した者の世界観を変える体験となること・・・
セックスもまた、「クラッシュ」の別のかたちなのだ。
「偶然」に「見知らぬ他者」と「圧倒的な体験」を共有する「セックス」は、
ポルノグラフィーに頻繁に使われるシチュエーションでもある。
社会的動物としての人間がもつ、普遍的なファンタジーといえるだろう。
また、セックスも交通事故も、死のイメージと直接結びつく。
セックスが内包する生殖の意味は、個体の死を前提にしているし、
交通事故は、もちろんダイレクトに死と直結している。
他者との出会いは、様々な意味のレベルで、死を招くのだ。
奇妙だが、切実な共通項だ。
さて、
「クラッシュ」の結果、圧倒的な体験を反芻するジェームズは、もっとも身近な「他者」である妻と、その圧倒的な体験を共有しようとする。
が、偶然体験した「クラッシュ」と、意図的に再現される「クラッシュ」とでは、似て非なるものとならざるをえない。
意図的に再現される「クラッシュ」には、ジェームズが偶然体験した「クラッシュ」の重要な要素が欠落しているのだ。
何が欠落しているのか?
1.偶然を、意図的には起こし難い(パラドックス)=偶然性の欠落
2.妻は、全くの他者ではない=他者の欠落
映画の後半、ジェームズが妻を「相手」に起こす「クラッシュ」は、かなりな程度、彼の望んだ「クラッシュ」だったのかもしれないが、自分の起こした「クラッシュ」が、自分が望む究極の「クラッシュ」とは違うことを自覚せずにはおれない。
他のことはともかく自分の好きなコトに関しては、自分自身をだますのは至難の技だ。
事故を起こした最後の一瞬、自分の意志が働いた(=偶然性に欠ける!)ことに気づかないわけにはいかない。
ハンドルを握っていたのは彼自身なのだ。
結果、彼はかなりな程度満足感を得たにしても、
妻に囁かざるを得ない。
「こんどこそ、こんどこそ・・・」
次回こそは、全くの偶然に、他者も巻き込んだ形で、クラッシュを再現できるのだろうか?
「偶然」といった面での完全な再現はパラドックスそのものに思えるが、「クラッシュ」から得る別の側面(=快楽)の再現?を努力すれば、より純粋な「クラッシュ」に近い満足が補完できるかも知れない。
あるいは、「偶然」よりも刺激的な「クラッシュ」の快感が隠されている可能性もある…。
一方、ジェームズとは別のアプローチで「クラッシュ」の体験を求める男ヴォーン(エリアス・コーティアス)の描写も興味深い。
彼が「クラッシュ」に求めるのは、「偶然性」よりも「歴史性」、他者に対するあるいはクラッシュそのものに対する「主導権・コントロールの力」である。
直感的で本能的なジェームズに比べると、ヴォーンは「事故」=「クラッシュ」に対して、より意識的・自覚的だ。
より意識的である結果、彼が選択するのは、「偶然」以外の要素を重視した「クラッシュ」だ。
再現の非常に困難な=不可能な「偶然性」に頼っていては、パラドックスに陥るだけだ。
しかし、「クラッシュ」最大の快楽はそもそも「偶然性」を前提にしているのだ。
ヴォーンが忠実に再現しようと試みる歴史的な「事故=クラッシュ」は、
そのディティールを緻密にと試みれば試みるほど、皮肉なことに、その事故の唯一性=「偶然」から「事故=クラッシュ」が構成されている真実が明らかになっていく。
「事故=クラッシュ」はあくまでも「偶然」から発生するのだ。
男は、意識的に無意識な事故を起こすことの困難さ・不可能さを自覚する結果、あるいは無意識的に薄々感じ取りながらも、ますます「偶然」の要素以外に重点の置かれた「クラッシュ」に固執することになる。
まさに倒錯である。
そんな男からすると、本当のクラッシュを体験し、論理的にではなく、本能的にクラッシュの快感を再現しようとするジェームズに対して、嫉妬以上のアンビバレンツな感情を憶えるのは当然である。ヴォーンにとってジェームズは、「クラッシュ」に対する無知からいえば、指導すべき後輩だが、同じ快楽を求める同士でもあり、自分とは全く別のアプローチで行動する強力なライバルでもあるのだ。
映画は、2人の男の「実験」と「闘争」の物語である。
本当の「クラッシュ」を実体験し、本能的に、無意識的に体験を再現しようとする男。
本当の「クラッシュ」を実体験しつつ、意識的に、或種、付加価値を含めて体験しようと試みる男。
矛盾を承知で闇雲に体験を繰り返そうとする男と、矛盾に気づきながらも倒錯的な実験を繰り返す男。2人は車という同じテクノロジーを使い、別のアプローチで、他者との係わり=「クラッシュ」を再現しようと模索する。
他者との係わりに「偶然性」「圧倒的な体験」を求め、テクノロジー(車)にはまりつつ、常軌を逸してゆく2人の姿は、見事に現代的だ。
資本主義社会が進行した結果、かつてどこにでもあったはずのヴァナキュラーなコミュニティーは失われ、のっぺりした文化に、孤立した個々人が密集する都市生活が、普遍性を持ちはじめる。
本来、社会的動物である人間が、本来あるべき密接な人間関係を無意識的に求める場合、それは、かつて自然にあったような、日常的に密接な関係で構築されたコミュニティーとして理想的に再現されるようなことは、有り得ない。実現するの代替物は、意識的に、あるいは無意識的に屈折したうえ、テクノロジーによって加速・増幅・誇張あるいは戯画化され、歪んだ結果になりがちである。
その歪んだ欲望を、自覚的にあるいは無自覚に受け入れた場合、「クラッシュ」に登場する2人の男が誕生する。
自覚的に真摯に「クラッシュ」を求めたヴォーンが、まさに加速・増幅・戯画化された予想外の形で「クラッシュ」を遂に「体験」する様は、滑稽ながらも哀しい結末である。それとは対照的な本能派のジェームズが、死を巧妙に避けるかたちで(!)「クラッシュ」の再現にほぼ成功しながら、自覚的なクラッシュ・ジャンキーと化すラスト…。
お見事である。
「クラッシュ」中毒に溺れる男二人。
さすが、監督する全作品でジャンキー描写の素晴らしい、クローネンバーグ監督ならではの傑作である。
了