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私は「蟻の兵隊」だった

[ book ]


私は「蟻の兵隊」だった
~中国に残された日本兵~
奥村和一 酒井誠
岩波ジュニア新書 ¥740+税
2006/06/29 第1刷

読了

はじめに

八〇才を過ぎた奥村さんが人生の大半をかけて闘ってきたものは何であるのか、この本を通じて一人でも多くの人に知っていただければと願っています。
 二〇〇六年五月 酒井誠

一 戦地、中国へ

そこでは、すでに数人の将校によって「試し斬り」がおこなわれていました。…そうしてこんどは私たちに「肝試し」が命じられました。正確にはこれを「刺突訓練」と呼んでいました。 22ページ

二 敗戦、しかし残留

日本の敗戦によって日本軍は閻錫山に降伏し、山西省のすべての鉱工業は彼に返されました。そして、山西産業は西北実業と名を変えますが、河本大作はひきつづき顧問として実権をにぎっていました。閻錫山は、日本軍の力を借りて、山西の共産化を防ぎ、産業を発展させ、かつてと同様に、省の実権をにぎることを夢見ていました。日本軍が残留したことの背景には、このような事情がありました。 61~62ページ

三 捕虜の日々

向こうでは一番の進歩分子だった人間が、帰ってきてみたら、なんのことはない、ちっとも進歩的な考え方をしていないのです。そういう人を目のあたりにして、おもしろくない気分になったこともありますからね。当時、中国から引き揚げて田舎に帰ってみると、郵便局か役場か鉄道の職員しか仕事がありません。そういうところに入るときは、誓約書を書かされるのです。「労働運動をしません」とか、「政治活動をしません」とかね。それでようやく職に就いたのです。 96~97ページ

四 帰国、そして裁判

地裁は三年ぐらいかかりましたから十六回はやっていますね。ところが裁判長は、判決文に判子を押さないというような無責任なことをしました。同じ地裁の官舎の中にいて、担当の部が替わっただけで判子を押せないというのです。「裁判長が差支えがあるので署名、捺印できない」というのは、「裁判長はきっと判決内容に不服なのだろう。ほんとうは自分たちのことを考えてくれたのではないか」と思って電話したら、何のことはない「異動です」と言われました。・・・これが地裁だけでなく、高裁でもそうでした。そして、二〇〇五年九月に最高裁は、上告を棄却しました。 141ページ

五 映画『蟻の兵隊』をめぐって

気が重かったんですよ。だからいちおう会って、握手はしましたけれど儀礼的なもので、相手がどういう出方をするのか、おそらく中国でどのように悪いことをしたのか追求されるだろうな、とそういう気持ちでいたのです。ところが、話が戦闘のことになったら、敵も味方もないのです。「おれはここからおまえを撃っていた」とか「おまえはここから狙撃していたのだな」とか。敵も味方もなく、どちらが正しいとか正しくないとかではなくて、自分たちが体験した戦争そのものを語っているのですよ。人間にとって、戦争とはどんなものだったのか、自分たちが体験した戦争とはなんだったのか、ということを話し合っているのです。私は、これは人間として話しているんであって、敵・味方として話しているのではない。戦争に駆り出されたものどうしが戦争を語っているのだと思ったのです。そして最後には、「おまえ、よく生きていたな」というわけです。 155~156ページ

イラク戦争にしたって、一般の人がどれくらい殺されているか。決して兵隊だけではないのです。破壊されるのも兵舎だけではなくて、一般の家庭なんです。誰が一番悲惨な目に遭っているかといったら、そこに住んでる民衆なんです。それで、これが正しいことなのかどうか、それをみんなで考えてもらいたい。 181~182ページ

怒りと悲しみと

1944年に徴兵され、
2006年には82歳になる奥村さん。
闘いは今も続いている。

新書183ページは、2時間の映画を補足するだけではない。

今年41歳になる貧弱な歴史感を持つ男にとっても必読書であった。

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2006年08月15日 22:24に投稿されたエントリーのページです。

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