paradise now
監督:Hany Abu-Assad
出演:Kais Nashef、Aki Suliman
仏・独・蘭・パレスチナ 90分
2005年
2人の男が「自爆攻撃」を決行する48時間を粛々と描く。派手な演出は極力抑えつつ、ものすごいサスペンスと説得力でもってぐいぐいひっぱられる。
感情移入度 ★★★★★
やっぱり自爆いやだ! ★★★
ド畜生自爆しかねえ! ★★★
アップリンク X、FACTORY
月曜のみレイトショー 21:00
自分も含めて客は7人前後。
目次
解説・物語・スタッフ・キャスト
『パラダイス・ナウ』ハニ・アブ・アサド監督FAQ
「パラダイス:自由と基本的人権への渇望」重信メイ
対談 古居みずえ×ハニ・アブ・アサド
対談 四方田犬彦×ハニ・アブ・アサド
対談 足立正生×ハニ・アブ・アサド
パレスチナ小史
字幕採録
海外レビュー/受賞暦
2007/3/10発行
発行人:浅井隆
編集人:浅井隆、露無栄、神田光栄、石井雅之
パンフレットデザイン:日用デザイン
発行:アップリンク
イスラエルでの「自爆攻撃」を描いたドキュメンタリー・タッチの映画。オーケストラのサントラやCGなどは一切なし。パンフによるとなんせ現地ナブルスでロケしたので、画面の背景で聞こえる銃声は「ホンモノ」!あまりの危険度に撮影を途中でやめたドイツ人クルーの後に補充されたのが、なんとドイツの受刑者たち。釈放を条件に、職業訓練のプログラムとしてナブルスでの映画撮影が対象にされたわけだが、これだけで映画のネタになりそうな話だ。
異邦人スーハ(フランス生まれのモロッコ育ち)のセリフで、「日本のミニマリスト映画」というワードが出てきたが、監督インタビューによると「ユリイカ」(青山真治監督)を念頭に置いたセリフだったそうなw
いくつか目にしたブログではパンフの評判があまりよくないw たしかに日本のパレスチナ派としてメディア上で有名な人をそろえました感が思考停止ぽくて嫌だという印象は、わからないではない。でも、主なテキストが、監督との対談で構成されていることは日本側の対談相手がどうこうという弱点を補っていると思う。ヒズボラやハマスといった単語が、日本のメジャーなメディアで流されているニュースとは明らかに違う立場から、多くのページで語られていることは、映画を補完するうえでじゅうぶん効果的だと思う。映画本編の力強さとくらべちゃうと、たしかにもう一工夫ほしいパンフだったかもしれないが、そもそもたかがパンフ1冊で歴史をわかった気になるほうがおかしい。日頃、体制側のプロパガンダを全身全霊で浴び続けていることに無自覚な我々観客が、たまに目にする反体制なプロパガンダ臭にいちいち過剰反応する様子はやっぱりどうかと思うw
映画で語られたもっとも重要なことは定型ニュースからはこぼれ落ちる(意図的に排除された) 空爆対自爆 という現実の問題なのだ。
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以下重要なネタバレ↓
ストーリーの最初からハレードとサイードは対称的に描かれている。「表面上勇ましい」ようにみえるハレードが実は「感情よりも理屈に忠実に行動した(=道に迷ったらとっとと引き返す)」ようにみえる。一方、「表面上は穏やか」に見えたサイードのほうが「深い怒りと固い決心を持っていた(=道に迷っても任務を遂行しようと試みる)」感情的なキャラクターとして描かれている。
ところがいざ実行の瞬間、ハレードは「任務の遂行」という理屈を否定し、サイードは固い決心のまま任務を遂行する。
ドラマ後半で、ハレードとスーハの激しい論争シーンがあるため、ハレードはスーハに説得されてしまったと受けとった観客もいたかもしれない。が、ハレードはスーハに説得されたわけではない。むしろ「自爆攻撃」が所詮は他人事でしかないスーハの偉そうな説教から、ハレードは「理屈そのもの」のバカバカしさを感情的に痛感していただけだ。結果としてハレードは「自爆攻撃」という「理屈」を否定してしまったが、これは断じてスーハに「説得」されたわけではない。むしろ土壇場でハレードにひらめいたのは、自爆攻撃を行う側の「理屈」やそれを批判する側の「理屈」を超えて、「自分の感情に素直に反応した」という直感的な感情の爆発だけなのだ。ハレードは「生きたい」という感情に素直になっただけだ。死にたくなかっただけだ。「自爆攻撃」を肯定していた時間は、仲間や友人らに認めてほしいという感情が優先していたにすぎなかったのだ。サイードを「説得」しようとスーハの言葉を受け売りしてしまうのも、ハレードにとっては「生き続ける」ことこそ最優事項であることを決心したからにすぎない。
それにくらべるとサイードの痛ましさはより深くて重い。地域社会から裏切り者の烙印をおされた父親を持つサイードは、すでに感情的に死んだも同然の毎日だった。スーハとのやりとりも静かなだけに、一見「感情豊か」な交流であるかのようにみえてしまったが、サイードの心はすでに死と傍観に満ちていただけだった。すべては、父親の名誉を取り戻そうという「理屈」で動いているだけにすぎなかったのだ。「名誉」をとりもどすということも「感情的」な問題ではあるが、「名誉」という概念は所詮「理屈」にすぎない。「生きたい、生き続けたい」という原初的な欲望と比べれば、「名誉回復」のために自ら死を選ぶという行為はひどく「理屈」に縛られた行動であることに、気づかざるをえない。サイードにとっては、裏切り者の子として生きる苛烈な日常にもはやよろこびはなく、死はむしろつらい日常からの解放なのだ。
物語の最後の最後で、ハレードとサイードの立場は一見して逆転してしまったかのように見えたが、実はそもそも二人は最初から最後まで何も変わっていなかったと思う。人好きなハレードと、絶望の中にしか生きていなかったサイード。
ハレードは、地域社会の友人たちとの一体感を優先したこともあり「自爆攻撃」を肯定していたが、最後の瞬間に自分自身の健全かつ根源的な感情をなによりも優先させた。
サイードは、一見平和に暮らしていたが、心の中では父親と自分を追い込んだ「社会」そのものを否定していたのではないか…。
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