Eastern Promises (2007)
監督:David Cronenberg
出演:Viggo Mortensen
100分
シャンテシネ
★★★★
すばらしい。
あらすじ
現代ロンドン、夜。ひとりの少女が赤ん坊を産み、死んだ。病院で死んだ身元不明の少女を担当したのは助産婦アーニャだった。アーニャは少女の残した日記を自宅へ持ち帰る。日記はロシア語で書かれていた。アーニャは日記に1枚のカードがはさまれていることに気づく。カードの住所にあるロシア料理店を訪問したアーニャを、やさしげな初老の男が迎える。ところが…
クローネンバーグが一貫して描くのは、「主人公」が「変身」して「化物」になるドラマだ。
クライマックスは「主人公」が100%「化物」として終わることが多い。カタルシスというやつだ。
ところが、90年代の裸のランチ以降、映画の最後で主人公が化物としてクライマックスを迎える物語の展開それ自体は変わらないものの、映画はより自省的により静かなエンディングを志向しはじめたかにみえる。スパイダーの、あまりにも静かで哀しいエンディングはそんな結末描写の到達点・完成形かと思われたが、さすがに監督はさらに先を歩き始めた。ヒストリー・オブ・バイオレンスとイースタン・プロミスでは、正気から狂気という時間軸ではなく、狂気から正気へと視点を変えてクライマックスを描いているようだ。
いままでは、正気から狂気への瞬間を映画のクライマックスとしてわかりやすい時間軸を流れていたが、ここ最近の2作品はむしろ正気と狂気が同じ時間軸上に同時に存在することを、正気の側から徹底して描こうとしているようだ。
ヴィゴが演じるニコライを主人公と考えてみよう。イースタン・プロミスのラストシーン、静かにどこかを見つめて深々と椅子に身を沈めるニコライは、ヒストリー・オブ・バイオレンスで途方にくれたトムと絶妙なまでに対称的な表情を浮かべるが、正気と狂気のバランス具合でいえば、ニコライのノワールなドス黒い正気は、妻帯者を夢見たトムを圧倒している。それはそれでいい。
が、今回の映画の主人公は、ニコライでもアーニャでもなく、実は「少女」だったのではないか?
今回のクローネンバーグの罠は、そこにこそあった気がする。物語冒頭、血まみれで倒れた少女は、ニコライの死闘と比べても遜色ない過酷な体験だったはずだ。少女が取引した現実社会は、ニコライの死闘が普通に繰り返される世界なのだ。
次回作は、「少女」を上回るノワールな主人公になることは間違いない。