町山智弘 洋泉社 ¥1,600+税
2006/1/4 初版発行
デヴィッド・クローネンバーグ
ジョー・ダンテ
ジェームズ・キャメロン
テリー・ギリアム
オリヴァー・ストーン
デヴィッド・リンチ
ポール・ヴァーホーベン
リドリー・スコット
おわりに
読了。ジョー・ダンテ、オリヴァー・ストーン、ポール・ヴァーホーベンの章が面白い。
表紙とタイトルにもなっているリドリー・スコットの章だけが楽しめなかったのが残念。
なぜなら私はマーサ教シンパ(ディック・ファン)だからだ。
映画ブレードランナーはポストモダンでもなんでもない。あの映画は、ディックが描いた未来社会の見事なまでに完璧なランドスケープだ。問題は、映画がそれ以上でも以下でもないということだ。かつてない素晴らしい風景画だが、生きた人物が一人も登場しないのだ。
映画は、まるでさっぱりディックの登場人物を描いていない。
美しいビジュアルは文句のつけようもないほど完璧だが、ストーリーはゴミ同然。
ロイ・バッティはレプリカントとして登場するが、最初から最後までどの登場人物よりも「人間」らしい。対するデッカードは、監督が主張するまでもなく映画を見ている限り、最初から最後まで映画の中で一番「レプリカント」ぽく見える。デッカードの最後の行動も、大きな決心といった程度でそこに大きな人格的変化は見られない。リドリー・スコットが描くキャラクターたちは、物語の中で本質的に変化しているようには見えないのだ。リンチ監督作の「ブルーベルベット」で、主人公ジェフリーがすっかり変ってしまうことと比較すればわかりやすい。リンチやクローネンバーグやヴァーホーベンの映画に登場するキャラクターたちは、例外なく映画の始まりと終わりでは明らかに登場人物が劇的に変ってしまう。不可逆変化といってもいい。が、リドリー・スコットの登場人物は、映画の最後で一見大きな決心をしたかのように見えるが、実は本質的な変化はなにも起こしていないのだ。デュエリストの二人がそうであったように。デュエリストの二人は、結局最初から最後までデュエリストだっただけの話だ。何も「変化」していないのだ!
論理的に整合性をとることを「目的」にした瞬間、その物語は「死ぬ」。
町山さんのテキストも、前半の監督たちに対する愛情と関心が炸裂する箇所は面白いのだが、ブレードランナーの章だけは、どうにも違和感を感じてしまった。
おそらく次の本「商業主義に走るハリウッド娯楽大作」に対する批評への繋ぎとしてブレードランナー論を位置づけたため、結論としての「ポストモダン」を強調し過ぎたせいなのではないかと邪推する。
というわけで次の本に期待。
・・・って何様のつもりだオレ!
すんません!
本音を言えば、リドリー・スコットの映画ってビジュアルは最高に好きなんだけど、いつも話がもの足りんのですよ。やっぱり映画は主人公がぶっ壊れてなんぼのもんでしょ!
ぐえへへへへへっへへ!